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此系列記錄的是「青年百億海外圓夢基金計畫」的親歷過程,而非申請流程的攻略或指南。

二〇一一年三月十一日,下午兩點四十六分。

這個時間,已經在新聞、紀錄片與各種文章裡看過無數次。

然而,真正走進東日本大震災・原子力災害伝承館,沿著那旋轉、緩緩向上的斜坡,照序讀著當時留下的日期與時刻,才發現這串熟悉的數字,竟能被拆得如此細碎。

地震發生、海嘯抵達、核電廠失去電源、居民接到避難指示。每個時刻都被清楚地標記在牆上,彷彿只要順著時間軸往上走去,便能理解整場災難的經過。

站在那裡的我們,如同立於歷史之中,早已知道接下來會發生什麼,但對當時的人而言,下一個小時、下一通電話,甚至下一分鐘,一切皆是未知。

圓弧狀斜坡,牆上時間軸的起點

前一天是來福島後的第一個休息日,我們和大黒ゼミ的學伴一起在福島的各處閒晃,之後將會留到番外篇。

休息一天,重新展開的研修活動似乎不打算給我們喘息的機會。從一早的災害傳承館、中午的震災遺構,到下午的研究機構與企業參訪,光看行程表,便已能想像這將是充實的一天。

第一站,是位於雙葉町的「東日本大震災・原子力災害伝承館」。

沒人敢比ya

過去幾天的研修,讓我們對於福島如何一步步走到現在,已經有了一些零散的認識。然而,這些努力的起點,得回到十五年前,從參觀一座大型環形劇場開始。

螢幕上的紀錄片,帶著我們回到福島第一核電廠興建的時代,並一路推進到二〇一一年三月十一日。從地震與海嘯、核電廠事故,一路到後續漫長的復興與廢爐工程,在短短幾分鐘裡相繼出現。

然而,一場災難的過程,並不是幾段新聞影像就能說清楚的。我們離開劇場,順著圓弧狀的動線向上走去,從震災以前的雙葉町與相雙地區談起。

當時的街道、學校、地方祭典,以及人們生活的照片,一張張展示。這個地區留下了如此深刻的災難記憶,人們似乎都已忘記,在那以前,它也曾經擁有無數個平凡的早晨。

沒走幾步路,便到了三月十一日。

大量的照片與紀錄,以及被海嘯破壞的實物,逐漸取代原本平靜的生活畫面。福島第一核電廠事故剛發生後的模型放在展示區裡;透過一旁的影像與解說,能夠理解事故發生時,各項設備如何接連失去原本的功能。

展覽再往前,便開始出現不同風景。避難指示、禁止進入的告示、災害對策本部留下的資料,以及消防與救援人員的紀錄。地圖上的圓圈一個接著一個擴大,原本熟悉的街道與住家,逐漸被劃進了避難區域。

當時緊急應對中心的白板紀錄
隨著核電廠事故,逐漸擴大的避難圈

被這些實物包圍於中,不自覺會將自己帶入此景。若自己住在這裡,街道撤離通知,究竟會帶走哪些東西?究竟會抱著什麼樣的心情呢?

護照、錢包、手機,還有電腦。大概會先拿走這些吧。

若尚有時間,可能會想把幾件衣服塞進背包;再多給我一點時間,或許就會開始猶豫哪些書值得帶走。

但比起行李該怎麼整理,真正困難的似乎是根本不知道自己什麼時候能夠回來。

看著曾經被海水浸泡過的學用品、生活用品,以及各種原本毫不起眼的東西,如今被小心翼翼地保存在展示櫃之中。

想起了國中小時,總覺得每個學期都過得十分緩慢。每天上學、寫作業,期待假期的到來,考試時再臨時抱佛腳。當時最為討厭的大概就是寒暑假的結束了吧。

倘若某一天,不再需要去學校了呢?不是放假,也不是畢業,而是不能與曾經一同創造回憶的教室、同學與老師們,再次重現那片光景。實在無法想像,自己在那個年紀會如何理解這件事。

展覽的最後,逐漸轉向福島目前正在進行的各項復興計畫。其中包含廢爐工程、ALPS 處理水、福島 Innovation Coast,以及未來的城鎮與產業發展。其中,也有我格外感興趣的機器人技術。

對於我而言,機器人在災害現場與高危險環境的應用,總帶著難以抗拒的吸引力。未知的環境、受限的感測資訊、複雜的地形,以及無法事先預測的障礙,幾乎把人工智慧研究裡最麻煩的問題全部集合在一起。

以往看相關論文,我們習慣把注意力放在演算法的表現上,但站在傳承館裡,這些平時習慣思考的問題,也多了一層現實的重量。

我們過去多次拜訪的南三陸町

離開傳承館,終於到了吃午餐的時間。我們來到道の駅なみえ,準備品嚐當地的名物「浪江炒麵」。

浪江炒麵的特色是麵條非常粗,幾乎有一般炒麵三倍的粗度。配料簡單,主要只有豬肉與豆芽菜,再用濃厚的醬汁炒在一起。麵條帶著嚼勁,豆芽菜則保留了清脆的口感。醬汁的味道濃厚,沒有什麼複雜的調味。

浪江炒麵

只不過,比起炒麵的美味,這天有另一則令我印象深刻的事情。

日本台灣交流協會的碩博獎學金,放榜了。

正在前往道の駅なみえ的路上,注意到合格名單已放上官網,比起期待午餐,心中更多的是對於放榜的興奮、恐懼與坐立不安,一直到大家坐下,炒麵上來之後才敢打開名單。

看到准考證號碼 56 號出現在合格者編號之中,意味著這一次獎學金順利錄取。

當時高中決定來日本讀書,但學部獎學金落榜,後來到畢業後決定來日本念研究所開始,再到錄取獎學金。十七歲的我大概不會相信這真的發生了,但他會很高興知道,我們最後真的走到這裡來了。

這邊謝謝從高中以來一路栽培我們的 もも 老師,沒有老師我應該不會想來日本讀書,可能會選擇在台積電賣肝。

看到結果的時候,自然十分高興,尤其這次不是一個人。

公布之後,前幾天還一起玩遊戲、聊天、到處閒晃的朋友們,大家紛紛替我慶祝。真的大感謝!

後面的 SSD さん和 YSD さん一臉問號不知道發生甚麼事情

如果只是在自己房間裡收到通知,大概也會很開心吧。不過,能在福島的道の駅裡,一邊吃著炒麵,一邊和大家分享這個消息,實為意料之外的經驗。

早上才剛沉浸於一段沉重的歷史,到了中午,則因為自己又往前走了一小步而興奮不已。

這兩件事情沒有什麼必須被連結的意義。只是單純地,替自己高興,也感謝身邊替我高興的人。

往後再看到「浪江炒麵」,大概也很難只想到它的味道了。


午餐過後,我們繼續走訪雙葉町與浪江町。

巴士行經雙葉駅附近時,可以看見重新整備的車站與街道。與先前走過的福島市、飯坂和土湯相比,這裡的景色有些不同。新建的設施與整修過的道路之間,仍保留著震災留下的痕跡。

雖某些區域已經解除避難指示,某些地方卻仍受到管制。即使經過感興趣的地方,無法自由進出,更不能隨意下車,只能隔著車窗匆匆望上一眼。

這一帶的街景,有些地方看起來與日本其他鄉鎮沒有太大的不同,並無帶著災難的痕跡,若不是事先知道這裡曾經發生過什麼,大概不會特別留意。

車子繼續往浪江町的沿海地區前進,來到了「浪江町立請戸小学校」。

這所小學距離海岸僅有約三百公尺。三一一地震後引發的海嘯襲擊請戶地區,大量海水湧入校舍,摧毀了原本的教室與設備。今日,當年受災的建築被保留下來,作為震災遺構,彷彿述說著當時的種種。

踏進校舍,迎面而來的皆是海嘯留下的破壞。充滿灰燼的教室、變形的建築構件,以及清晰可見的水痕,真是難以將眼前的景象,與曾經充滿孩子笑聲的校園聯繫在一起。

小學校教室的慘況,無法想像當時若有學生在裡面會發生什麼悲劇
小學校體育館

地震發生後,當時仍在校內的八十二名學生,在老師們的帶領下,迅速離開校舍,朝距離學校約一點五公里的大平山避難。教職員在地震後,判斷海嘯可能抵達,立即帶著大家往高處移動。途中也獲得開著小卡車的居民協助,所幸最後師生全員平安避難。

光是想像當時的場景,就讓人感到心神不寧。

後來,我們也來到了大平山霊園。這裡設有紀念海嘯罹難者的慰靈碑,也是當年請戶小學師生前往避難的地方。

慰靈碑。背後寫著所有罹難者的名字

從學校到大平山,不過短短一點五公里,如今我們可以沿著道路走訪,重新回望當時的避難路線。曾經坐在教室裡的孩子,就是從那裡一路向山上跑來。

他們最終平安逃過了海嘯,請戶地區卻仍有許多居民不幸罹難。即使是同一場災難,每個人所經歷的結果,也截然不同。

離開前,再次回望那座受損的校舍。

海嘯已退去十多年,當年的學生們也已長大成人。然而,教室仍然留在這裡,保留著他們最後一次上課的模樣。


離開請戶地區,接下來的行程終於有了不同的氣氛。

我們來到了會澤高壓水泥的「福島 RDM 中心」。這是一座結合研究、開發與製造的設施,研究範圍十分廣泛,從水泥的 3D 列印、具有特殊功能的建築材料,到再生能源與無人機等技術,都能在此見到。

RDM 中心。白色部分皆為水泥 3D 列印的結構

對於喜歡新技術的我而言,這裡的每一項設備都相當有吸引力。從建築物與內部的裝飾可以看到,利用 3D 列印技術製造水泥結構是他們十分引以為傲的技術。除了 3D 列印,還有能夠在冬天發熱的水泥、透過人群踩踏產生電力的地磚,以及海上風力發電等研究。

會再生縫補裂痕的水泥

而在眾多技術之中,最吸引我目光的,果然還是無人機。尤其是那台為實際產業與災害應用而設計的大型無人機(真的超級大台…)。

現在接觸的機器人與無人機研究,大多存在於電腦中的模擬環境,或是論文裡展示的實驗設備。雖然也不是沒有看過實體無人機,但眼前這台的規模,仍然超出了原本的想像。

高度大概到腰部以上一點,超大台

上午才在傳承館裡看見核災現場的困難,下午便在研究設施裡接觸到可能用於災害應對的技術,對我而言,是相當特別的經驗。

這天下午在 RDM Center 裡,真正讓我印象深刻的,比起技術,更是一名來自中國,研究再生水泥的劉姓研究員。

一說起自己研究的東西,他整個人便顯得格外興奮。語氣隨著介紹逐漸熱切,眼神也不自覺地亮了起來,那些平日花費大量時間鑽研的問題,到了此刻仍有著說不完的樂趣。尤其是那雙眼睛,那是一種發自內心的熱愛。

看著眼前這位研究員,卻讓我重新思考,自己究竟希望成為什麼樣的研究員。

大部分時候,研究反而充滿了各種令人煩惱的事情。而自己是否能夠在一次又一次的失敗之後,仍然保有最初對研究的興趣,其實沒有太大的把握。

然而,至少劉博士在向我們介紹研究的那段時間裡,他眼中的興奮與喜悅,是如此鮮明。讓我不禁有些羨慕。

若干年後,當自己真的成為一名研究員。到了那個時候,希望自己能像眼前這個人一樣,一談起自己正在研究的東西,便忍不住興奮起來。

希望那時的自己,不只是擁有研究員的身分,也依舊喜歡研究這件事情。即使經過無數次失敗,仍然願意為了一個尚未解決的問題,不厭其煩地繼續嘗試。在談起自己熱愛的事物時,眼神仍能像他一樣閃閃發亮。

我們坐著這條白色的裝置藝術也是水泥 3D 列印的

離開 RDM Center,這天的行程仍未結束。我們接著來到了位於浪江町棚鹽地區的 Rice Resin(ライスレジン) 工廠。

這裡研究並生產的,是一種利用稻米製成的生質塑膠材料。將原本不適合食用的米,經過處理後與塑膠混合,製成能夠應用於各種日常用品的材料,藉此減少石油系塑膠的使用。

只可惜,到了這時,大家的精神狀態已經不太允許我們繼續深入思考了。店長甚至開始打起了盹。

遠處那個眼睛閉著的就是店長

我也沒有比較厲害。前幾站還能因為看到新技術而興奮不已。到了這裡,明知道眼前的公司十分有意義,卻很難再拿出與前面幾站相同的精神。當下實在只想趕快回飯店休息。


晚上的住宿地點,是「J-VILLAGE(Jヴィレッジ)」。

這裡原本是日本重要的足球訓練中心,在東日本大震災與福島第一核電廠事故發生後,曾轉為事故應對的重要據點,直到二〇一八年才逐步恢復營業,並於隔年全面重新開放。

忙了一整天,原以為大家到了飯店便會早早休息,沒想到晚上又聚集到了店長的房間喝酒、聊天。

到後面直接倒一片

看著眼前這群人才剛認識不久,卻已經能一起胡鬧的朋友,不禁覺得有些不可思議。平時不算擅長主動與人交流的我,竟也漸漸習慣了每晚和大家聚在一起聊天。

究竟是來研修,還是來修學旅行的呢?

不過,以這樣的夜晚結束忙碌的一天,倒也挺好的。


日本語バージョン

本シリーズは「青年百億海外円夢基金計画」の実体験を綴ったものであり、申請手続きの攻略や指南ではありません。

このシリーズの日本語版は、すべてAIによる翻訳です(なにしろ筆者の日本語が壊滅的なので)。

二〇一一年三月十一日、午後二時四十六分。

この時刻は、ニュースやドキュメンタリー、さまざまな記事の中で、もう数えきれないほど目にしてきた。

けれど、実際に東日本大震災・原子力災害伝承館に足を踏み入れ、ぐるりと回りながらゆっくり上っていくスロープに沿って、当時残された日付と時刻を順に読んでいくと、この見慣れた数字の並びが、これほどまで細かく刻まれ得るのだと初めて気づいた。

地震の発生、津波の到達、原発の電源喪失、住民への避難指示。一つひとつの時刻が壁にはっきりと記されていて、まるで時間軸をたどって上っていけば、災害の全体像を理解できるかのようだった。

そこに立つ私たちは、歴史の中に立っているようなもので、この先何が起こるのかをすでに知っている。けれど当時の人々にとっては、次の一時間も、次の一本の電話も、次の一分でさえ、すべてが未知だった。

円弧状のスロープ。壁の時間軸の始まり

前日は福島に来てから初めての休日で、私たちは大黒ゼミのバディたちと一緒に福島のあちこちをぶらぶらした。その話は番外編に取っておくことにする。

一日休んだあと、再開した研修は、私たちに息をつく暇を与えるつもりはないようだった。朝は伝承館、昼は震災遺構、午後は研究機関と企業の見学。スケジュール表を見ただけで、充実した一日になることが想像できた。

最初の目的地は、双葉町にある「東日本大震災・原子力災害伝承館」。

誰もピースする勇気がなかった

ここ数日の研修を通して、福島がどのように一歩ずつ今にたどり着いたのか、断片的ながらも少しずつ知ることができていた。けれど、そうした努力の出発点を知るには、十五年前へ戻らなければならない。それは、大きな円形シアターの見学から始まった。

スクリーンに映し出されたドキュメンタリーは、私たちを福島第一原子力発電所が建設された時代へと連れ戻し、そこから二〇一一年三月十一日へと進んでいく。地震と津波、原発事故、そしてその後の長い復興と廃炉作業までが、わずか数分のうちに次々と映し出された。

しかし、一つの災害の経過は、いくつかのニュース映像だけで語り尽くせるものではない。シアターを出た私たちは、円弧を描く動線に沿って上りながら、震災以前の双葉町と相双地域の話から辿っていった。

当時の街並み、学校、地域の祭り、そして人々の暮らしの写真が、一枚一枚展示されている。この地域にはあまりにも深い災害の記憶が刻まれていて、人々はそれ以前、ここにも数えきれないほどの平凡な朝があったことを、忘れてしまっているかのようだった。

数歩も進まないうちに、三月十一日にたどり着いた。

大量の写真や記録、そして津波で壊された実物が、穏やかだった暮らしの光景に少しずつ取って代わっていく。福島第一原発の事故直後の模型が展示エリアに置かれ、隣の映像と解説を通して、事故発生時に各設備がどのように次々と本来の機能を失っていったのかを理解することができた。

さらに先へ進むと、展示は別の風景を見せ始める。避難指示、立入禁止の告示、災害対策本部に残された資料、そして消防や救助隊員の記録。地図上の円が一つ、また一つと広がり、見慣れていたはずの街並みや家々が、次第に避難区域の中へと引き込まれていった。

当時の緊急対応センターのホワイトボードの記録
原発事故に伴い、次第に拡大していった避難区域

こうした実物に囲まれていると、知らず知らずのうちに自分をその光景に重ねてしまう。もし自分がここに住んでいて、街に避難の知らせが届いたら、いったい何を持ち出すだろう。どんな気持ちを抱えているのだろう。

パスポート、財布、スマホ、それからパソコン。たぶんまずはこのあたりを手に取るだろう。

まだ時間があれば、服を何着かリュックに詰め込みたくなるかもしれない。もう少し時間をもらえたら、どの本を持っていくべきか迷い始めるかもしれない。

けれど、荷物をどうまとめるかよりも本当に難しいのは、いつ戻ってこられるのかがまったくわからないことなのだと思う。

かつて海水に浸かった学用品や生活用品、そしてもともとは何の変哲もなかったさまざまな物が、今では展示ケースの中に大切に保存されている。

小中学生の頃を思い出した。毎学期がとてもゆっくり過ぎていくように感じていた。毎日学校に行き、宿題をして、休みが来るのを心待ちにし、テスト前には一夜漬けをする。当時いちばん嫌だったのは、たぶん夏休みや冬休みが終わることだった。

もしある日、もう学校へ行かなくてよくなったら。休みでも、卒業でもなく、ともに思い出をつくってきた教室や同級生、先生たちと、あの光景をもう二度と再現できなくなったら。その年齢の自分がこの出来事をどう受け止めたのか、まったく想像がつかない。

展示の最後は、福島で現在進められているさまざまな復興計画へと移っていく。廃炉作業、ALPS 処理水、福島イノベーション・コースト構想、そして未来のまちづくりや産業の発展。その中には、私が特に関心を持っているロボット技術もあった。

私にとって、災害現場や高危険環境におけるロボットの応用には、抗いがたい魅力がある。未知の環境、限られたセンサー情報、複雑な地形、そして事前に予測できない障害物。人工知能研究における厄介な問題が、ほとんどすべてそこに集まっている。

これまで関連する論文を読むときは、アルゴリズムの性能にばかり注目しがちだった。けれど伝承館に立っていると、普段考え慣れているそうした問題にも、現実の重みが一層加わったように感じられた。

私たちが以前何度も訪れた南三陸町

伝承館を出ると、ようやく昼食の時間になった。私たちは道の駅なみえへ向かい、地元の名物「なみえ焼きそば」を味わうことになった。

なみえ焼きそばの特徴は、麺がとても太いこと。一般的な焼きそばのほぼ三倍の太さがある。具はシンプルで、主に豚肉ともやしだけ。それを濃厚なソースで一緒に炒める。麺にはしっかりとしたコシがあり、もやしはシャキシャキとした食感を残している。ソースの味は濃く、複雑な味付けはない。

なみえ焼きそば

ただ、焼きそばのおいしさ以上に、この日は強く印象に残った出来事がもう一つあった。

日本台湾交流協会の修士・博士課程向け奨学金の合格発表があったのだ。

道の駅なみえへ向かう途中、合格者名簿が公式サイトに掲載されていることに気づいた。昼食への期待よりも、発表に対する興奮と恐怖、そして落ち着かなさのほうがずっと大きく、みんなが席に着いて焼きそばが運ばれてくるまで、名簿を開く勇気が出なかった。

受験番号 56 番が合格者の番号の中にあった。今回の奨学金に無事合格したということだ。

高校のときに日本へ留学すると決めたものの、学部の奨学金には落ちた。その後、卒業してから日本の大学院へ進もうと決め、そして今回の奨学金合格に至った。十七歳の私はたぶん、これが本当に起きたことだとは信じないだろう。でもきっと、私たちが最終的にここまでたどり着いたと知ったら、とても喜んでくれると思う。

ここで、高校の頃からずっと私たちを育ててくださった もも 先生に感謝を。先生がいなければ、たぶん日本へ留学しようとは思わず、TSMC で肝臓をすり減らす道を選んでいたかもしれない。

結果を見たときは、もちろんとても嬉しかった。特に今回は、一人ではなかったから。

発表のあと、数日前まで一緒にゲームをしたり、おしゃべりしたり、あちこちぶらぶらしたりしていた友人たちが、次々にお祝いしてくれた。本当に大感謝!

後ろの SSD さんと YSD さんは、何が起きたのかわからず顔中に「?」を浮かべている

自分の部屋で通知を受け取っただけでも、きっと嬉しかっただろう。けれど、福島の道の駅で焼きそばを食べながら、みんなとこの知らせを分かち合えたのは、まったく予想外の経験だった。

朝は重い歴史に浸っていたのに、昼には自分がまた小さな一歩を前に進めたことで、すっかり舞い上がっていた。

この二つの出来事に、無理に結びつけるべき意味はない。ただ純粋に、自分のために喜び、そして一緒に喜んでくれた周りの人たちに感謝したい。

これから先、「なみえ焼きそば」を目にしたら、たぶんその味だけを思い出すことはもうできないだろう。


昼食のあと、私たちは引き続き双葉町と浪江町を巡った。

バスが双葉駅の近くを通ると、再整備された駅舎や街並みが見えた。これまで歩いてきた福島市や飯坂、土湯と比べると、ここの景色は少し違う。新しく建てられた施設や整備された道路の間に、震災の残した痕跡が今もなお残っている。

一部の区域ではすでに避難指示が解除されているものの、今も規制が続いている場所もある。気になる場所を通りかかっても、自由に出入りすることはできず、ましてや勝手にバスを降りることもできない。車窓越しに、慌ただしく一目見ることしかできなかった。

このあたりの街並みには、日本のほかの町とあまり変わらないように見える場所もあり、災害の痕跡は感じられない。ここで何が起きたのかを事前に知っていなければ、きっと特に気に留めることもなかっただろう。

バスはさらに浪江町の沿岸部へと進み、「浪江町立請戸小学校」に到着した。

この小学校は、海岸からわずか三百メートルほどの場所にある。三一一の地震によって引き起こされた津波が請戸地区を襲い、大量の海水が校舎に流れ込んで、教室や設備を破壊した。現在、当時被災した建物は震災遺構として保存され、あの日のさまざまな出来事を語りかけているかのようだ。

校舎に足を踏み入れると、目に飛び込んでくるのは津波が残した破壊の跡ばかりだった。瓦礫と砂ぼこりに覆われた教室、変形した建築部材、そしてはっきりと見える水の痕。目の前の光景を、かつて子どもたちの笑い声に満ちていた校舎と結びつけるのは、本当に難しかった。

小学校の教室の惨状。もし当時、生徒が中にいたらどんな悲劇が起きていたか、想像もできない
小学校の体育館

地震発生後、当時まだ校内にいた八十二人の児童は、先生たちに導かれてすぐに校舎を離れ、学校から約一・五キロ離れた大平山へと避難した。教職員は地震のあと、津波が到達する可能性があると判断し、ただちにみんなを連れて高台へ向かった。途中、軽トラックを運転していた住民の助けも得て、幸いにも最終的に児童と教職員全員が無事に避難することができた。

当時の光景を想像するだけで、胸がざわつく。

その後、私たちは大平山霊園にも足を運んだ。ここには津波の犠牲者を追悼する慰霊碑が建てられていて、当時、請戸小学校の児童と教職員が避難した場所でもある。

慰霊碑。裏にはすべての犠牲者の名前が刻まれている

学校から大平山までは、わずか一・五キロ。今では道路に沿って訪れ、当時の避難経路を改めて振り返ることができる。かつて教室に座っていた子どもたちは、まさにあそこから山の上へと走ってきたのだ。

彼らは最終的に無事津波から逃れたが、請戸地区では多くの住民が犠牲になった。同じ一つの災害であっても、一人ひとりが経験した結末は、まったく異なっていた。

立ち去る前に、もう一度あの損壊した校舎を振り返った。

津波が引いてから十年以上が経ち、当時の児童たちもすでに大人になっている。それでも教室はここに残り続け、彼らが最後に授業を受けたときの姿をとどめていた。


請戸地区を離れると、その後の行程はようやく違った雰囲気になった。

私たちは會澤高圧コンクリートの「福島 RDM センター」を訪れた。研究、開発、製造を融合させた施設で、研究範囲は非常に幅広い。コンクリートの 3D プリンティング、特殊な機能を持つ建築材料から、再生可能エネルギーやドローンなどの技術まで、ここで目にすることができる。

RDM センター。白い部分はすべてコンクリートの 3D プリントによる構造

新しい技術が好きな私にとって、ここにある設備はどれもとても魅力的だった。建物や内装を見れば、3D プリンティング技術でコンクリート構造物をつくることが、彼らにとって大きな誇りであることがわかる。3D プリンティングのほかにも、冬に発熱するコンクリート、人が踏むことで発電する床タイル、洋上風力発電などの研究も行われていた。

ひび割れを自己修復するコンクリート

数ある技術の中で、私の目を最も引いたのは、やはりドローンだった。特に、実際の産業や災害への応用を想定して設計された大型ドローン(本当にめちゃくちゃ大きい……)。

今私が触れているロボットやドローンの研究は、ほとんどがコンピューターの中のシミュレーション環境か、論文で紹介される実験機材の中に存在している。実物のドローンを見たことがないわけではないが、目の前のこの機体の規模は、それでも想像をはるかに超えていた。

高さはだいたい腰より少し上くらい。超デカい

午前中は伝承館で原発事故現場の困難を目の当たりにし、午後には研究施設で災害対応に活かせるかもしれない技術に触れる。私にとって、それはとても特別な経験だった。

この日の午後、RDM Center で本当に印象に残ったのは、技術よりもむしろ、中国出身で再生コンクリートを研究している劉さんという研究員だった。

自分の研究について話し始めると、彼は見るからに興奮していた。紹介が進むにつれて口調はどんどん熱を帯び、目も自然と輝き出す。普段膨大な時間をかけて取り組んでいる問題に、この瞬間もなお尽きることのない楽しさを感じているようだった。特にあの目。あれは心の底からの愛情だった。

目の前のこの研究員を見ていると、自分はいったいどんな研究者になりたいのだろうと、改めて考えさせられた。

研究というものは、たいていの場合、むしろ悩ましいことばかりだ。何度失敗を重ねても、最初に抱いた研究への興味を持ち続けられるのか、正直あまり自信はない。

それでも少なくとも、劉博士が私たちに研究を紹介してくれていたあの時間、彼の目に宿る興奮と喜びは、あまりにも鮮やかだった。思わず少し羨ましくなった。

何年か後、自分が本当に研究者になったとき。そのときには、目の前のこの人のように、自分が研究していることについて話し出すと、思わずわくわくしてしまうような人でありたい。

そのときの自分が、研究者という肩書きを持っているだけでなく、研究そのものを変わらず好きでいられますように。数えきれないほど失敗しても、まだ解決されていない一つの問題のために、飽きることなく挑戦し続けられますように。自分の愛するものについて語るとき、彼のように目をきらきらと輝かせていられますように。

私たちが座っているこの白いアートオブジェも、コンクリートの 3D プリント製

RDM Center を出ても、この日の行程はまだ終わらなかった。次に向かったのは、浪江町棚塩地区にあるライスレジン(Rice Resin)の工場。

ここで研究・生産されているのは、お米からつくられるバイオマスプラスチック素材だ。食用に適さないお米を加工してプラスチックと混ぜ合わせ、さまざまな日用品に使える素材にすることで、石油由来プラスチックの使用を減らそうとしている。

ただ残念なことに、この頃には、みんなの体力も気力も、これ以上深く考えることを許してくれなかった。店長に至っては居眠りを始めていた。

奥で目を閉じているのが店長

私も人のことは言えない。最初のほうの見学先では、新しい技術を見るたびに興奮していられた。けれどここまで来ると、目の前の会社がとても意義のあることをしているとわかっていても、それまでと同じ気力を出すのは難しかった。正直、そのときはただ早くホテルに戻って休みたかった。


その夜の宿泊先は「Jヴィレッジ」。

ここはもともと日本の重要なサッカーのトレーニングセンターだったが、東日本大震災と福島第一原発事故のあと、事故対応の重要な拠点となった。二〇一八年になってようやく段階的に営業を再開し、翌年には全面的に再オープンした。

一日中動き回ったので、ホテルに着いたらみんな早めに休むのだろうと思っていた。ところが夜になると、また店長の部屋に集まって、お酒を飲みながらおしゃべりを始めた。

最後にはみんなばったり倒れていた

知り合ってまだそれほど経っていないのに、もう一緒にふざけ合えるようになった目の前の友人たちを見ていると、なんだか不思議な気持ちになった。普段は自分から人と関わるのがあまり得意ではない私が、いつの間にか毎晩みんなと集まっておしゃべりすることに慣れていた。

いったい研修に来たのか、それとも修学旅行に来たのか。

でも、こんな夜で忙しい一日を締めくくるのも、なかなか悪くない。

《青年百億圓夢計畫|重生希望使者:十一》- 福島篇

作者

CHS Li

發文日期

2026 - 10 - 09

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CHS Li

大家好,可以叫我鴕鳥。現為九州大學研究生。喜歡看電影、讀小說、偶爾去沒去過的地方走走。鴕鳥這個名字有兩個意思。一是跑得最快的兩足動物,一是不願正視現實的人。仍然不確定自己是哪一個。

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